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パソコン壊れる

前から不調だったのですが、だましだまし使っていた愛用のラップトップが、とうとうダウンしました。

自宅のデスクトップは居間にあるので、嫁のチェックが厳しく、とても遊びにゃ使えません。

って、こういうのはサボり始めるといけないんですよね。継続は力なり。どうしようかな。

とりあえず修理が終わるまで、しばらく更新お休みします。

代用のMacintoshでは、文字を入力/変換するだけで大変なので、コメントなどのお返事は後日まとめてやります。

来週は鈴鹿へいくので、少し時間かかるかもです。ごめんなさい。

志太会長、ブラックユーモアですよね?

ノムさんはもうすっかり楽天の監督を引き受けるような言動をしているわけですが…。

シダックス野球部 廃部の可能性も

 シダックスの志太勤会長(70)は27日、楽天の新監督に野村克也氏が就任した場合、シダックス野球部を廃部する可能性があることを明らかにした。東京都内で取材に応じた志太会長は「(野村氏が)いなくなったら部をやめるだけ。野村さんがいるからこそ、マスコミへの露出が多く、部を持つ価値がある。会社としては(負担が)重すぎる。道楽でやるわけにはいかない」と語った。野村氏の今後については「11月初めまで(社会人の)大会がある。そこまでは(野村氏に)必ずやってもらう」と11月19日に開幕する日本選手権まで指揮を執ることを求めていた。

志太会長、これはノムさんを引き留める思い余っての発言ですよね。マスコミが面白がって書いてるだけですよね。たしかにノムさんのネームヴァリューは営業効果抜群、道楽でやるものではないという主張もごもっともなんですが、だからといって「ノムさんがいなくなったら解散」というのは大人げなさ過ぎます。

会長は野球への造詣は決して浅からぬ方であると思います。チームを持つ価値は、何もノムさんが監督でなければ享受できないものではないということは、会長が最もよくご存じかと思います。

ジョークだと信じたいものです。

そして青波も消えた…、2004年9月27日

柴原実という選手を知っているだろうか? 私がオリックスブルーウェーブで最も好きだった選手である。

阪急~オリックスを渡り歩いた背番号31。少しずんぐりむっくりした体型。レギュラーポジションを獲ることはなかったが、全盛時には指名打者や代打の切り札として、人知れず活躍した強打者である。とにかくツボにきたときのパンチ力は凄まじかった。足は決して速くなく、守備範囲こそ狭かったが、捕れる範囲の球はちゃんと捕る。基本に忠実で、それでいて大胆なところもある、そんなところが魅力だった。

90年代に入り、阪急ブレーブスの色は年々薄められ、新生・オリックスブルーウェーブがパリーグの雄だった頃。柴原選手も寄る年波の影響か、出番は年々少なくなっていく。当時のブルーウェーブの外野は、イチロー、藤井、田口の3人がレギュラーをガッチリと固め、ポジションからこぼれたDJ、高橋智は指名打者。守備固めには本西がいる。さらに巨人から、内野も外野も守れるシュアな左打者・四條が移籍して仰木監督に重宝される。のちに阪神で活躍する平塚が二軍に固定されているといえば、当時のブルーウェーブの外野手の層の厚さがよく分かる。とても柴原選手のポジションなんてない。柴原選手は一軍と二軍を往復するが、昇格してもほとんど出番はない。

そんなある日のこと、昼過ぎに二軍の試合が終わり、室内練習場で二軍の練習の手伝いをしてる私に、柴原選手が声を掛けてくれたことがあった。一応、私たちアルバイトは私語厳禁を言い渡されている身なので、特に中身のある話をしたわけではない。「兄ちゃんらも大変やの」程度のもんだったと思う。1つハッキリ覚えているのは、そのとき柴原選手が手にはめていた、まだ真新しいファーストミットのことである。ミズノ社製、当時、私も野球部ではファーストを守っていたので、「ええミットや」と感心したことを強く覚えてる。

それからというもの、柴原さんは神戸サブグラウンドのシートノックの時間には、ファーストのポジションに就くことが多くなった。本職のライトとファーストを行き来することもあった。ベテラン選手が、出場機会を求めて、最後の大勝負に出ていることは素人目にもはっきりと分かった。元々、私の好きな選手の1人だったが、その日を境にますます好きになる。

休憩時間にネット裏スタンドの下で私たちは昼食をとるのだが、柴原選手はそこによくやってきて、廊下に並べられた選手用のバイキングの中から、天ぷらとか豚カツをつまんで持ってきてくれるようになった。試合前に、新品の試合球についたロウを落とす「砂もみ」も私たちの仕事だったが、スタメンに名前のない日に部屋へやってきていっしょにボールをもんだこともある。やがて、いつからか私は「柴さん」と慕うようになった。

1996年、私の記憶が確かなら、この年、柴さんが一軍の試合に出場したのは10試合くらいだったと思う。さすがの怪力・柴さんも、ホームランは1本も打てなかったと思う。一軍と二軍との往復というよりは、大半が二軍暮らしのシーズンだった。何本か印象に残る快打も放ったが、これでは柴さんが来年もチームと契約してもらえる可能性は非常に低いだろうと思った。練習中の柴さんも、どことなく暗かった。ところが日本シリーズでは、その柴さんがベンチ入り選手に選ばれ出場登録された。つぶさに「最後の花道か…」と私は感じた。

シリーズ第3戦、グリーンスタジアム神戸。私の仕事は、一塁内野席およびライトスタンドのアルバイト対のキャップ。指定席と自由席の間に「見張り番いけ」、外野の売店の前で「迷子を拾え」、胴上げの時間になったら「ゲート開放して市民を入れてやれ」とトランシーバーで指示するだけというおいしい仕事。グラウンドの中での仕事を選ぶことも出来たのだが、ここだけの話、スタンドにいた方が試合をバッチリ観戦できるし、なにより女子大生の皆さんとお友達になれる特典がついてくる。

試合前のシートノックが始まる。ライトにイチローが走ってくる。大人気だ。子供たちのみならず大人達までもが「ボールくれー」と手を振る。すると、そのライトへ、我らが柴さんも遅れず走ってきたのだ。みんなイチローを見ている。よほどの柴さんファンでもない限り、たぶん誰も見てない。しかし柴さんはライトへやってきた。だが、柴さんがノックを受けたのはたった一球。他の守備機会はイチローがこなす。試合前の大切な時間、柴さんは空気を読んだのだろう。

その日、柴さんに出番はなかった。翌日のノックも、翌々日のノックも、柴さんはライトへやってきた。ファーストミットなんてはめていない。しかし柴さんは、やはりノックは1~2球受けるだけだった。このシリーズ、柴さんの出番が1打席だけあった。第4戦だったか、第5戦だったか。たぶん第4戦だったように思う。覚えていないのは、運悪くも迷子やら喧嘩やらで忙殺されている時間だったためである。その打席をじっくりとみることができなかったのだ。三振だったのかフライだったのかゴロだったのかも知らない。ただ1つ確実なのはホームランやヒットをかっ飛ばしたわけではないということ。仕事に追われていても、歓声で大方の結果は分かるものだ。

この打席が柴さんの現役最後の打席となった。まだ私たちがシリーズの余韻に浸っている中、柴さんは球団に呼び出され、無情の戦力外通告を受け取った。しかし現役にこだわる柴さんは諦めようとしなかった。練習場にもやってくる。そして「今度、阪神のテストがある」と教えてくれた。「どこ行っても応援しますんで、頑張って下さい」と心からエールを送った。決して明るい表情ではなかったが、柴さんから湧き出る「野球やらせろ」オーラにプロの魂を感じた。

テストを受けさせてもらえたのかどうかは知らないが、阪神に入団することはできなかった。他の球団からも、おそらくいい声はかからなかったものと思う。かれこれするうちに私たちアルバイトもオフシーズンに入る。キャンプには帯同できないので、また春のオープン戦が始まるまで私たちはお休み。つなぎになる他のアルバイトを探す。前を通った際には、練習場や合宿所の近辺を探したが、その冬、とうとう柴さんには会えなかった。

びっくりしたのは翌年3月である。春季キャンプを終えて神戸に帰ってきたブルーウェーブ、その中に我らが柴さんの姿があった。二軍のコーチになれたのだ。尻のポケットにブ厚い手帳が入っている。これはコーチの必須アイテム“えんま帳”である。ペーペーのアルバイト学生からも慕われる柴さんなら、間違いなく若手選手からも慕われるだろう。この人なら、いいコーチになるに違いないと思った。柴さんが果たせなかった夢は、未来のブルーウェーブの卵たちに託された。

その後、2~3年して、一軍チーム低迷のとばっちりを受け、柴さんは何も悪いことしていないのにオリックスから一方的にコーチ契約を切られた。運良く、プロ入り前に所属していた会社から声が掛かり、選手兼指導者としてアマチュア復帰。まだその姿を一度も拝見はしていないが、風の便りによると現在も元気にやっているそうだ。

阪急ブレーブス時代からの生え抜き選手、柴原実。しかし、オリックスはこの功労選手にあまりに冷たかった。選手を大切にしないということは、人を大切にしないということである。人を大切にしないということは、心を大切にしないということである。案の定、オリックス“ブルーウェーブ”は10数年であっさりと壊された。

さらば青波 さらば青春ごく一部の人間の破廉恥なエゴによって引き起こされた「球団合併」。潰されたのは近鉄バファローズだけではない。オリックスブルーウェーブという素晴らしいチームもまた潰されたのである。

この1年、色々な人にあった。神戸に住む学生時代からの友人M君は、阪急時代からのブルーウェーブファン。年に何度か野球場で会い、帰りにささやかな同窓会と称して酒を酌み交わしてきた。その彼は「会社のファンじゃないから」とファンを辞めた。野球は全く見ないそうだ。電話をしても、最近は全く野球の話をしなくなった。春に有志でバンドを作ったそうで、年内に初ライブをと意気込んで練習している。早く嫁さんを探して身を固めてほしいものだ。

仁川の競馬場の近所に住むブルーウェーブファンのY君とは4~5年の付き合いになるが、私がグリーンスタジアムから帰りによく立ち寄る神戸市内の中華料理店で知り合った。このY君にはKさんという彼女がいたが、この子は近鉄ファンだった。喧嘩にならないよう内野席で見るから金がかかると、いつもY君は嘆いていた。いつからか、マスターの提案で、負けた方が“あぶらそば”を一杯おごることになってしまい、つまりいつも私がおごっていたということになる…。この彼は球場へ行く回数が例年の半分以下になり、7月以降は足を運んでいないという。どうしても馴染めないそうだ。Kさんは好きな選手の多くは楽天へ移籍してしまったという。気持ちが分かるだけに、慰めの言葉が出なかった。

もちろん平気でそのまま合併球団を応援している人もいる。それは私には理解できない行動だが、私に彼らを批判する言葉はない。悩んだ末の決断という人もいるだろうし、人それぞれ自由である。野球以外でもお付き合いのあった人とは、今でも普通に付き合うが、向こうもこちらも野球の話題は意識的に避けている。ファンは、様々な道を選んだ。ただ、忘れてはならないことは、「球団合併」をきっかけに野球から遠のいた人がいるということである。

「オリックス」という企業名と、「バファローズ」という球団名が残された。それにしてもである、私たちはプロ野球のファンであるというが、一体何を応援しているのだろう。企業名や球団名なんてしょせん記号なのである。地域の概念は曖昧で、歴史も伝統もない、そんな記号のファンなのだろうか。

きっと違うと思う。2004年9月27日。グリーンスタジアム神戸の三塁側スタンドに座りながら、色んなことを考えた。悲しいのは私たちだけではない。向かい側に座っている、ブルーウェーブファンだって泣いているのだ。彼らは記号のファンではない。このブルーウェーブというチームを愛していた。残るのは会社の名前だけ。選手は散り散りとなる。チームの過去と未来が繋がることは永久にない。ブルーウェーブファンも球団を奪われたのである。「球団合併」が踏みにじったものはあまりに多すぎる。

あの6月13日からはじまった戦い。私が呼びかけたのは署名でもデモでもない。賛成でも反対でもいいから、現場に足を運び、そこにいる人々の声を自分の耳で聴き、そこに横たわる物事を自分の目で見定め、そこで自分の頭で考えてほしい、ただそれだけだった。現場のファンは色々と考えた。ジレンマに直面して自己嫌悪になった人も少なくない。

近鉄のオーナーも、オリックスのオーナーも、最後までとうとう一言の説明責任すら果たさずに逃げた。そう、人の心を持たぬ彼らにとって、現場と正対することの大切さなど分かるはずなく、自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の頭で考えず、それでも平気な人種なのである。

2つの球団が無くなった。だが、その死は、何の解決にもなっていないのだ。2つの球団を愛する人間の戦いに終止符が打たれただけなのだ。2つの球団を我が物顔で振り回した心ない球団経営者のエゴが満たされただけなのだ。明日、またどこかのチームが、消滅・合併するかもしれないのだ。むしろ「前例」という言葉によって、その悲劇が繰り返される可能性は高まったとさえ言える。少なくとも、あの合併を企んだ者の片割れは、今ものうのうとオーナーとして立ち振る舞いを続けている。

潰れてしまったものはかえってこない。しかし、これから潰れるものを防ぐことはできる。1年前、スタジアムに流れた多くの涙。二度と繰り返してはならない。誰にも泣いてほしくない。切に願う。

野球は人に勇気と希望を与え、野球場は笑顔と元気に溢れていなければならないのだ。しかし、その保証はどこにもない。



【おまけ】 近鉄惜別FLASH

去年、全てが終わったあと、掲示板に張られてたものです。

ファイルサイズ20MB超につき、ナローバンド環境では取り込めない可能性があります。ファイルを置いているサーバーからデリを食らい次第、デッドリンクとします。なお再生/停止にはJavaScriptを使っています。


 

あの日、未来はバラ色に輝いていた - 近鉄優勝“9・26”

Picture (1)もう「9・27」になってしまいましたが、「9・26」といえば大阪近鉄バファローズが最後に優勝した日です。

あちこちで何回も書いてきましたが、私はちょっとした行き違いでこの試合の前売り券を手にし損ねた上、のっぴきならぬ仕事に追われて当日券の発売にも間に合わず、大阪ドームには行ったものの生観戦できませんでした。入ろうと思えば、出口を逆走するなどして入れなくもないんだろうけど、中に入れないお客さんは私(たちのグループ)だけではないし、せっかくの優勝の日に水を差してしまうのはよろしくないから、邪な誘惑は封印しました。

誰かが持ってきた小型ラジオのイヤホンジャックに、これまた誰かが持ってきたスピーカーを無理矢理に接続して、ダイヤル1314・OBCラジオ大阪で試合の展開を追い掛けました。この日の実況担当は松本恵二アナウンサー。バファローズ実況歴20ウン年。おそらくこの地球上で最も多くの近鉄戦を喋ったアナウンサーではないかと思われます(数えてないので知りません)。解説は、佐藤道郎さんでした。

Picture (2)9時半?10時前? 正確な時間は覚えていないのですが、運命の瞬間がやってきます。3点ビハインドで最終回を迎えた近鉄、ノーアウト満塁の好機。野球のルールを知ってる人なら、そりゃ頭では分かりますよね。ここでホームランが出れば文字通り一発逆転と。

しかし、野球をご存じの方なら同時にこう思うはずです。「そんなこと滅多に起こらん」、「むしろノーアウト満塁は点になりにくい」。そして近鉄ファンなら「近鉄は満塁に弱い」、「新人岩隈の完封、礒部の逆転スリーラン、中村の逆転サヨナラ弾、もう運は使い果たしたはず」と。我々の理性が、奇跡を否定するのは無理のないことです。

ところが、ラジオからは、「ここでホームランが出たらマンガチックだねぇ。このチームはそういうことを何度もやってきたからねぇ」とのたまう声が聞こえてきました。そうです、解説の佐藤道郎さんは、全世界でただ一人、あのホームランを予言していたのです。いつもはただの酔っぱらいかと思われるようなテンションで解説してる俗なオッサンですが、その眼力は伊達ではなかったのです。もはやエリアオブゴッド、神の領域。

Picture (3)その瞬間、ドームの中からものすごい歓声が漏れてきました。近鉄は優勝したのです。ドームの外も大騒ぎです。北川の描いた放物線は見えません。梨田監督の胴上げも見えません。いまいち状況が飲み込めず、しばし呆然とする人の姿もありました。やがて誰が持ってきたか、ビールだのサイダーだのコーラだの、泡モノも飛び交いました。抱き合う人、万歳する人、泣き出す人、疲れて寝てる人、いろいろでした。

30分後でしょうか、1時間後でしょうか、ドームから人の波が出てきました。中にいた仲間と、ここでやっと合流。その夜は、ミナミを朝までハシゴした記憶があるのですが、どこで飲んだのかという記憶が全くありません。優勝特番を見たような記憶もありません。このめでたき日を、精一杯に楽しんだという充実感だけが残っています。

Picture (4)朝、家に帰り、嫁さん(当時はまだ籍を入れてませんでしたが)に録っておいてもらったビデオで、満塁ホームランの場面を確認します。たぶん、夜にどっかで見たんだろうけど、全く覚えてないので、これが満塁ホームランをはじめてみた瞬間、高く宙を舞う我らが梨田監督を拝んだ瞬間ということにしときます。

とにかくベロンベロンの二日酔いで、その日はタクシーで出勤。一日、仕事もせず、寝ていたのでしょう。社員から白い目で見られていたという記憶はありません。これは間違いなく寝てますね。

3年後、もう大阪にバファローズはありませんでした。あの日、あれだけ笑顔あふれた大阪ドームなのに、たった3年の月日も待たずに涙雨の嵐が吹く“猛牛軍団の墓場”となってしまいました。

4年後の9月26日。数々の奇跡によって人々の理性を破壊する究極の快楽球団・近鉄バファローズ。しかし、もう近鉄バファローズが新たな奇跡を起こすことは二度とありません。

私たちは、このチームから多くの記憶を授かりました。それぞれが目にした光景は、それぞれの角度で、今も瞼に焼き付いています。

近鉄バファローズは、私たちに大きな課題を残したまま逝きました。

プロ野球とは一体何のためにあるのでしょうか?

これによって誰が幸せになったのでしょうか?

この結末によって何かが解決しましたか?


というわけで、酒と女をこよなく愛する俗っぽい解説者として近鉄ファンから親しまれましたが、実は元・南海ホークス、パリーグの初代セーブ王、現在は中日二軍監督、そんな佐藤道郎氏の「神の預言」が聴きたい方、まだデリられていないようなので下記エントリーからお拾い下さい。

なお、タイトルにございますように、私、まだ「近鉄バファローズアワー最終回」を聴いておりません。録音されたものをお持ちの方、あるいはご存じの方がいらっしゃいましたら、是非お裾分けをお願いしたいと思います。このままでは、死んでも死にきれません…。



猛牛突進 パ・リーグ制覇 ~2001年 大阪近鉄バファローズ優勝への軌跡~
ポニーキャニオン (2001/10/20)
おすすめ度の平均: 5
5 近鉄バファローズが大好きです♪
5 あのローズ 王さんとのタイ記録
5 興奮冷めやらぬ

Fernando, Congratulation World Champion !!!!!

スペインでは、ほんの数年前まで、F1はテレビ放送さえ満足にされていなかった。めぼしいグランプリが幾つか、深夜枠に、あるいは後日に、ゴソっと編集されて放送されるだけ。どうしてもF1が見たいというスペイン人は、屋根にアンテナ立てて有料の衛星放送で見るしかなかった。それもそのはず、スペインには小さな国産自動車会社がいくつかあるが、とてもグランプリには参加できるような規模でなく、もちろん未だかつてスペイン人のドライバーがF1で活躍したこともほとんどなかった。だからスペインで人気のレースは二輪と相場が決まっていた。四輪のスペインGPより、二輪のスペインGPの方が、サーキットには多くの人が詰めかける。

そのスペインが今、空前のF1ブームに沸いているという。5月に行われた今年のスペインGPのスタンドは超満員であった。お目当てはフェルナンド・アロンソ。このスペイン生まれの、「物心付いた時代はシューマッハの時代」「セナやプロストのレースなんて見たことがない」という24歳は、いま最も世界一に近い場所にいる天才ドライバーなのだ。

スペイン人ドライバーの過去は、はっきりいって暗い。ちょっとやそっとのF1オタクでも、「過去に走ったスペイン人ドライバーの名前を5人挙げろ」と言われると、かなり高い確率で答えに詰まるはずだ。かくいう私も、レラ・ロンバルディ、アドリアン・カンポス、ルイス-ペレス・サーラ、マルク・ジェネ、そしてフェルナンド・アロンソ、この5人しか思い出せない。あわてて手元の史料集をめくってみたが、1970年に走ったアレックス・ソーラ-ロイグというドライバーを1人見つけるのがやっとだった。無論、こんなドライバー、私は知らない。他にもいるかもしれないが、知ってる人がいたら師匠と崇めて尊敬したい。

現在、アロンソの個人マネージャーを務めるアドリアン・カンポス氏。前段にも名前があるように、彼は80年代にミナルディでF2、F1を走ったスペイン人ドライバーである。残念ながら特筆するような成績は挙げていないのでドライバーとしての経歴はここで割愛するが、実は彼は1993年にスペインにF1チームを作ろうとしたことがあった。そのプロジェクト名は「ブラボー」。彼はチームの出資者になると同時に、まずは自らドライバーとしてステアリングを握り、将来的には後輩のスペイン人若手ドライバーを乗せるという計画を立てた。思うように資金が集まらず紆余曲折を経たが、実現まであと一歩まで漕ぎ着けたところで、今度は代表者が病に倒れてしまい、壮大な計画は幻と消えた。

だが、カンポスは諦めなかった。レーシングドライバーとして自らが果たせなかったワールドチャンピオンという夢、スペイン人として母国から世界に通用するドライバーを送り出すという夢、カンポスは才能を探し続けた。そして、カンポスは一人の少年カーターに才能を見出した。それが若き日の“少年”フェルナンド・アロンソ。カンポスは迷うことなくアロンソに賭けることにした。カンポスの眼力に狂いはなく、アロンソはマイナーフォーミュラでメキメキと頭角を現わし、ついにF1まで辿り着いた。しかし、アロンソに与えられた環境はミナルディ。かつてカンポスも所属したチームだが、現在はテールエンダーの常連。のちにワールドチャンピオンになる天才ドライバーだが、まだ周囲の評価は低く、それがスペイン人だったためとは言い切れないが、これといった大口スポンサーを持つでもなければ、この環境に辿り着くのが精一杯だったのである。

月日を重ね、2005年のF1世界選手権・ドライバーズチャンピオンシップは、そのフェルナンド・アロンソのものとなった。ドン底からスタートした彼のF1でのキャリア、しかし彼は自らの能力で次々と状況を打開し、ステップアップを重ねてきた。「ワールドチャンピオンは一日にしてならず」、彼がF1ドライバーとしてやった仕事はただ1つ、才能を信じ常にベストを尽くすこと。だから、この大きな夢が叶うまで、一度たりとも自らの置かれた境遇について弱音を吐いたことはなかった。チャンピオンが決まってようやく「これまでF1で成功したスペイン人はいなかった。だから、僕には何のヘルプもなかった」と本音を漏らす。ワールドチャンピオンも一人の人間である。

速い、上手い。しかし、そんなものは“みんなのヒーロー”F1ドライバーなら、誰でも「朝飯前」。アロンソが他のドライバーに対して抜きんでて優れているのは、常にめまぐるしくうつろうレースの流れを的確に判断できることと、状況の変化に素早く対応し勝負所で求められる最大限の仕事量をこなすことができることの、2点である。作戦を立てても作戦通りには進まないのがレースの常であり、流れに乗り損なったドライバーがレースから脱落していく。しかし彼はレースの流れが切り替わっても、全く揺るがない。この瞬時の判断力は集中力によって裏付けられており、かつ冷静であるためピットから送られる限られた情報を拾う余裕もあり、それを即座に一早く行動に移すことができる。「速く走ればいい」ことは誰もが分かってる。では「どうすれば速く走ることができるか」。彼は状況対処能力の高さで、この壁をクリアしたのである。それが「ただ腕がよいだけでもただ頭がよいだけでも勝てない」現代F1の求める最高のドライバー像にマッチしたのである。

2005年9月25日、ブラジル・サンパウロ郊外、インテルラゴス。フェルナンド・アロンソはスペイン人として初めての、そして史上最年少のF1ワールドチャンピオンとなった。「エマーソンはおろかセナのレースさえ満足に見た記憶がない」という新時代のチャンピオン。しかし全く違う時代のチャンピオン3人は、「インテルラゴス」というキーワードで交錯する。

アロンソに破られるまで最年少チャンピオンの記録を守ってきた70年代の英雄、エマーソン・フィッティパルディ。エマーソンもブラジル人としては史上初のワールドチャンピオンだった。当時、ここインテルラゴスにエマーソンの凱旋を見に集まった群衆の中に、10代のアイルトン・セナがいた。セナはエマーソンに憧れ、単身イギリスへ渡り、ブラジル人チャンピオンの歴史を受け継いだ。セナに憧れて育った世代が、現在もブラジルのF1熱を支えている。きっと、10年後、20年後、このアロンソに憧れた少年がチャンピオンになる。スペインのF1は、ここから始まるのだ。

今日を境にフェルナンド・アロンソは、世界の猛者から「指名手配」を受けた、追われるべき存在となる。いつかやってくる「アロンソが王座から転落する日」。どんな偉大なチャンピオンにも必ず、敗れ去る日が待っている。いつかやってくる「アロンソなんて知らない人たちの時代」。日本人だって、いつまでも負けちゃいられない。

Picture (1) Picture (2)



FORMULA 1 WORLD CHAMPIONSHIP - DRIVERS
Year Driver Nat. Make
1950 Giuseppe FARINA I Alfa-Romeo
1951 Juan-Manuel FANGIO RA Alfa-Romeo
1952 Alberto ASCARI I Ferrari
1953 Alberto ASCARI I Ferrari
1954 Juan-Manuel FANGIO RA Maserati / Mercedes-Benz
1955 Juan-Manuel FANGIO RA Mercedes-Benz
1956 Juan-Manuel FANGIO RA Ferrari
1957 Juan-Manuel FANGIO RA Maserati
1958 Mike HAWTHORN GB Ferrari
1959 Jack BRABHAM AUS Cooper Coventry-Climax
1960 Jack BRABHAM AUS Cooper Coventry-Climax
1961 Phil HILL USA Ferrari
1962 Graham HILL GB BRM
1963 Jim CLARK GB Lotus Coventry-Climax
1964 John SURTEES GB Ferrari
1965 Jim CLARK GB Lotus Coventry-Climax
1966 Jack BRABHAM AUS Brabham Repco
1967 Denis HULME NZ Brabham Repco
1968 Graham HILL GB Lotus Ford
1969 Jackie STEWART GB Matra Ford
1970 Jochen RINDT A Lotus Ford
1971 Jackie STEWART GB Tyrrell Ford
1972 Emerson FITTIPALDI BR Lotus Ford
1973 Jackie STEWART GB Tyrrell Ford
1974 Emerson FITTIPALDI BR McLaren Ford
1975 Niki LAUDA A Ferrari
1976 James HUNT GB McLaren Ford
1977 Niki LAUDA A Ferrari
1978 Mario ANDRETTI USA Lotus Ford
1979 Jody SCHECKTER ZA Ferrari
1980 Alan JONES AUS Williams Ford
1981 Nelson PIQUET BR Brabham Ford
1982 Keke ROSBERG SF Williams Ford
1983 Nelson PIQUET BR Brabham BMW
1984 Niki LAUDA A McLaren TAG-Porshe
1985 Alain PROST F McLaren TAG-Porshe
1986 Alain PROST F McLaren TAG-Porshe
1987 Nelson PIQUET BR Williams Honda
1988 Ayrton SENNA BR McLaren Honda
1989 Alain PROST F McLaren Honda
1990 Ayrton SENNA BR McLaren Honda
1991 Ayrton SENNA BR McLaren Honda
1992 Nigel MANSELL GB Williams Renault
1993 Alain PROST F Williams Renault
1994 Michael SCHUMACHER D Benetton Ford
1995 Michael SCHUMACHER D Benetton Renault
1996 Damon HILL GB Williams Renault
1997 Jacques VILLENEUVE CDN Williams Renault
1998 Mika HAKKINEN SF McLaren Mercedes
1999 Mika HAKKINEN SF McLaren Mercedes
2000 Michael SCHUMACHER D Ferrari
2001 Michael SCHUMACHER D Ferrari
2002 Michael SCHUMACHER D Ferrari
2003 Michael SCHUMACHER D Ferrari
2004 Michael SCHUMACHER D Ferrari
2005 Fernando ALONSO E Renault


F1グランプリ 2005 Vol.1 Rd.1~Rd.7
ジェネオン エンタテインメント (2005/09/22)


F1グランプリ 2005 Vol.2 Rd.8~Rd.13
ジェネオン エンタテインメント (2005/10/07)


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