つまらない、外野で行われるギスギスとした神経戦
この際、好き嫌いや利害関係は無視します。わざとやったのかどうかは分からないけど、レーシングドライバーは聖人君子でもなんでもない俗な人間なのであり、少なくとも自分がミハエルだったら、彼と同じ行動に出た可能性がないとは言い切れる人はいないと思うのです。
エスケープゾーンのないサーキットでは、トラブルであれミスであれ、ガードレールにあたって破片を撒き散らそうがタイヤバリアにめりこもうが寸止めで回避しようが、エンストしたクルマはコース上に止まっちゃうわけです。
元の元を辿れば、今の予選方式を採用した段階で、こうなることは自ずと予想できたわけです。ペナルティの裁定は受け入れなければなりませんが、1人のドライバーに責任を押し付けることで、ルールを決めた側の責任というものが棚上げされているような気がしてなりません。
そもそもレースに有利・不利なんてものは付き物なのであって、「周回遅れに邪魔された」の論争なんかもそうなのですが、近頃のドライバーは神経質すぎるような気がします。そのうちなぜ、こうもギスギスしたレースになるのでしょうか…。
メーカーワークスの喧嘩は落としどころが見つけられないからです。大資本の喧嘩は、相手を徹底的に叩き落とすといいますか、どちらかが折れてしおれて消えるまでやりあっちゃいます。お互いにそれなりの投資をしていて、見返りをとらなきゃなりませんから、「今日はこのくらいにしといたろ」とか「次は許さんから覚えとけ」という決着はありえません。
ドライバー同士が車を降りて殴り合いをやれば、「暴力はいけない」などと咎められ厳しいペナルティが科されますが、舞台裏に持ち込まれ、当事者の与り知らぬところで代理戦争を騙った泥仕合に発展させれば、誰も咎めません。どちらかの親方が死ぬまで、子分が密室で殴り合いです。フェラーリとルノーは正に今、その状態です。トヨタやホンダも、このパターンで国内レースをしっちゃかめっちゃかにしてきた歴史があります。
メーカーワークスは、押し寄せるときは一斉にやってくるのですが、やりこめられたところから順に資本を引き上げていきます。大資本が去ったあとには、一握りの勝ち組と、花火のあとのゴミのように膨らみきった全体の規模だけが残され、破綻の途まっしぐらになります。ワークスがガチンコでやりあったカテゴリーが次々と消滅していくのは偶然ではありません。
F1とて、こういうことを繰り返していると、5年後、10年後にはカテゴリーが無くなっているかもしれません。
自動車競争は、自動車という道具を使うスポーツです。自動車競争の歴史は、自動車の発展とともにありました。しかし、自動車、とりわけガソリンエンジンの自動車は、科学的・工学的に既にほぼ完成の域に達しています。
今後、この分野で、世界の常識がひっくり返るような大発明が出ることはまずありえません。その昔は「走る実験室」などと言われたF1ですが、そんな事情もあって近頃は市販車の開発に大したフィードバックを期待できるものではなくなりつつあります。
現代F1における開発競争とは、重箱の隅を突っついてコンマ数秒を捻り出す作業になっています。F1が「ワークス戦争」の場と化してしまったのは、この一種の不毛な取り組みに大資本を惜しげもなく投下できるのがメーカーワークスだけだったからなのです。
道具を使っていても、道具を作るのにどれだけたくさんの金がかかっても、モータースポーツの主役はあくまでも人間です。その人間は、時として醜く、時として下品で、時として卑怯なことをやるものです。ただ、人間同士の付き合いにはよい意味で“ファジーな不文律”があり、喧嘩をしても相手を叩きのめすところまではやらずに済まされてきたのです。
勝負の場所に馴れ合いは要りません。しかしギスギスとしたレースも見たくありません。コースの外で行われる会社同士の喧嘩も結構ですが、決着はコースの中で行われる人間同士の喧嘩で付けて頂きたい、いちレースファンとしてこう思う今日この頃です。

廃止寸前の北海道営競馬が送り出したコスモバルク。結果は結果に過ぎない。だが、結果を出した今だからこそ、声にしたいことがある。













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