« 2006年09月 | メイン | 2006年11月 »

「Zippoの修理」について

コメント欄に書くにはちょっと脱線しすぎなので、ここからトラックバックで…。

先生、はいッ!

私、タバコの方は、当局の圧力により強制的に“断煙”をさせられ早や3年近くになり、デパートでZippoを見かけて衝動買いをすることもめっきり少なくなりましたが、「近頃の若いモンはこの程度の工作も出来んのか!」とブツブツ言いながら収集より修理することに目覚め、友人のZippoが壊れるのを待ちわびております、なんじゃそりゃ。

さて、ヒンジのリベットが歪んでいて、知らず知らずのうちにオイルが蒸散してしまい着火に至らないと言うこともありますが、ベテランならこれくらいはマイナスドライバーでクイっと治してるはずなので、除外します。

フリントホイールのすり減りか、フリントスプリングの減衰低下でなければ、ウイックのトラブルの可能性が高いです。別のライターから着火させて、息を掛けてみると分かります。未着火状態でも、ふたを開けたあとカムプレートのオイルの乾き方で分かることがありますです。

古いジッポーになるほど、中の綿の形にクセが付いているので、ウイックを交換しても、今話題の「ギオン管症候群」のように、どこかでウイックが圧迫されてしまい、ガスが上までうまく伝わらないことが多いです。ふとんかなにかから新しい綿を取り出して入れ替えると、あっさり着火することがままありますです。

昔は修理に出すと、リベットを外して丁寧に分解清掃までしてから返ってきたのですが、今は修理といっても、治すのではなく、インサイドユニット丸ごと新品に交換されることが多いようです。たいていの場合、新品のインサイドユニットといっしょに元使っていたユニットも同梱で返送してもらえますが、思い入れのあるブツのときは「修理不可能でユニットごと交換される際は事前に連絡下さい」などと一筆添えておく方が確実です。

私の経験則から言うと、交換もしくは新品添付されると1~2ヶ月、修理してもらうと2~3ヶ月です。急ぎの時は、最近はやってるとこ少なくなりましたけど、Zippoの看板出してる金物店や銃砲店を探して持っていくと、偏屈オヤジがサクサクっと治してくれるかもしれません。昔は、洋モクを扱う煙草屋にも、そっち系の職人が多かったのですが、今はめっきり見かけなくなりました。

5年ほど前に、ヤスリの逝ったブツを送ったときは、半年近く経って忘れた頃に返ってきたということもありましたが、見事新品になっていました。インサイドユニットとケースと干渉する部分をちゃんと成形してくれていたので、そこで時間かかったのかもしれません。やはりZippoは着火時にグラ付いたりすると萎えますし、ヒンジを開け閉めの音が命、修理サービスの中の人もそのへんはきっちり抜かりなく丁寧に仕事してくれます。

もちろん、最近のZippoは品質が低下していて故障が殺到しているのではないかという疑惑も拭いきれません。先日、友達から修理してくれと預かったブツは、2000年・春に生産されたブツなのに、フリントホイールが滑って火花が飛びません。とりあえずバネを交換してみようと思いつつ、手の痺れが取れるのを待つ今日この頃です。

Good-bye Schumi - いなくなってはじめて分かる存在感

F1最終戦、ブラジルGP。優勝、フェリペ・マッサ。2位、フェルナンド・アロンソ。3位、ジェンソン・バトン。わずかにドライバーズチャンピオンシップ逆転の可能性があったミハエル・シューマッハは4位に終わり、アロンソが2年連続のワールドチャンピオンになった。

普段のグランプリなら、このように簡潔に記憶されるに止まる。5年前、2001年の最終戦の詳細を記憶している人がいないように、このレースも何年かするとレースの詳細を思い出すのに一苦労するようになるところである。ところが、このグランプリの記憶は、その他大勢のグランプリと違い、多くの人の脳裏にいつまでもくっきりと居座り続けるだろう。なぜなら、このグランプリは、長い長いF1の歴史の中において、1つの時代が終わり、また1つの時代がはじまる、正にその“しおり”にあたるグランプリだったからである。

この最終戦が現役最後のレースになるミハエル・シューマッハは、燃料ポンプが壊れて予選10位に終わる。決勝スタート直後、あっという間に何台かをパスして追撃モードに入ったが、今度はタイヤバースト。首位から70秒近く遅れた最後尾に落ちた。「最後は攻めるレースで締めくくりたい」、そう語っていたシューマッハ。ここから怒濤の追い上げが始まる。

アクシデント後、ほぼフルタンク状態から周回数を伸ばす作戦に切り替えたが、タイヤを上手に使ったドライブのおかげでラップタイムが落ちない。1人だけ別次元のスピードで飛ばし、気が付けばポイント圏内。フィジケラを蹴落とし、ライコネンに襲いかかり、表彰台手前まで迫ったところでチェッカーフラッグ。

個人的なことをいえば、最後はブッチぎりの優勝、アロンソに何か起きて逆転王座ならさらによし、そういうシチュエーションを望んでいたし、シューマッハも自身も口先とは裏腹にうっすらと目論んでいたはずだが、筋書き通りにいかないのがレースというもの。

この週末、インテルラゴスで最速を誇ったのはミハエル・シューマッハだ。しかし、シューマッハのレースリザルトは4位。ここに、レースの難しさ、レースの面白さがある。速いだけでは勝てない。運が良いだけでも勝てない。これがレースだ。偉大なチャンピオンの最後のレースとしては、結果論かもしれないが、この「激しくレースをした」フィナーレで良かったと思う。

もう何回目、いや何十回目になるのか数えようもない、「シューマッハって凄いな」という余韻が残って終わるグランプリ。とにかくミハエル・シューマッハという男は、勝負へのこだわりは人一倍のものがある。プレッシャーのかかる場面でも、そのシチュエーションを楽しむ。ドライビングの技量も一番だったが、それ以前に根っから競走することが大好きな人間だった。時としてそれが一線を越えて物議を醸すこともあったが、レースの世界はその執念なくして頂点に立つことができない世界だ。

シューマッハが走ったこの時代を目の当たりにできたことを幸せに思う。期せずして裏声が出てしまったり、鳥肌が立ってしまったり、拳を握って気合を入れてしまったり、様々な興奮を提供してくれたことに、ただただ感謝したい。もちろん、シューマッハはまだまだやれる。だが、辞めることができるうちに惜しまれつつ辞めていくことがどれほど素晴らしいことか…。以前にも書いたことだが、「辞める」といって辞めることのできる人間が少ないF1界を、五体満足に「辞める」といって辞めることができたことを祝福したい。

さて、もとい世代交代、表彰台の3人はいずれも1980年代生まれ。ラウダ、アンドレッティ、ペテルソン、ヴィルヌーヴらが覇を競った蛮勇の時代、彼らはまだこの世に生を受けていない。グリッドに並んだ22人の半数以上が21世紀になってからデビューしたドライバー。1980年代から通しで活躍しているドライバーとなると、91年デビューのミハエル・シューマッハ、93年デビューのルーベンス・バリチェロ、94年デビューのデイビッド・クルサードの3人しかいない。顔ぶれは毎年少しづつ変わっていくのでなかなか実感できないが、5年あるいは10年分をまとめて振り返ると「世代交代」という言葉を如実に感じることができる。

優勝91回、ポールポジション68回、ファステストラップ76回、そしてワールドチャンピオン7回。ミハエル・シューマッハは、F1界の先達が作ってきた記録という記録の数々を次々と更新した。「誰も破ることができないだろう」といわれた記録さえあっさりクリアした。取りこぼした記録といえば出走回数とモナコGP優勝回数くらいのもので、連続ワールドチャンピオンや年間勝利数の記録も彼のものである。そして今、この世界を知る全ての人々が、去りゆく“帝王”の背中に「今度こそ誰も破れないだろう」という表現を用いて最大限の賛辞を贈る。

ミハエル・シューマッハが走った15年間。シューマッハが52勝目を挙げたとき、プロストの凄さを知った。シューマッハが6回目のワールドチャンピオンになったとき、ファンジオの凄さを知った。シューマッハが66回目のポールポジションを獲ったとき、セナの凄さを知った。シューマッハの打ち立てた記録が破られるとき、シューマッハを知らない次の世代の人間がシューマッハの凄さを知る。

昨年、F1史上最年少でワールドチャンピオンになったアロンソは、シューマッハが初めて戴冠した25歳にして、早くも2度目の戴冠を成し遂げた。ミハエル・シューマッハの打ち立てた金字塔はあまりに高く、そう易々とてっぺんの見えないものではあるが、シューマッハの次の世代を生きるドライバーは、既にシューマッハを上回る勢いでシューマッハを追いかけている。

「記録は破られるためにある」と言ったのはカール・ルイス。破られない記録には値打ちがない。きっといつか誰か、このシューマッハの記録を破る奴が出てくるのだと信じたい。それを目撃することが、次の楽しみだ。

最後に、ミハエル・シューマッハが打ち立てた記録のうち、意外と知られていないものを1つ挙げておく。フェラーリ在籍11年間で187戦に出走。これは次点のゲルハルト・ベルガーの6年・97戦を大きく上回る。

ミハエル・シューマッハがマラネロにやってくると決まった1995年の秋、その決定を快く思わないティフォッシはたくさんいた。私もその1人だった。

当時、フェラーリはドン底。シューマッハのフェラーリでの最初の仕事は、徹底した“ダメ出し”だった。劣ったマシンでも、シューマッハは極限まで攻める。傍目には危険に映る仕事も、危機回避能力の高いシューマッハだからこそ可能になる。1996年、雨のスペイングランプリ、「寒くてステアリングを握るのが大変だった」というレース、道具は明らかに劣った状況にもかかわらず、抜群の集中力で勝利を掴む。そして、フェラーリドライバーとして初めて迎える聖地モンツァの一戦で、シューマッハは完勝する。

ファクトリーが頑張れば、必ず現場のドライバーが応えてくれる。この信頼関係が、フェラーリを再び頂点に押し上げていった。ドライバーは1人でレースをすることができない。人を動かす、人をその気にさせる、ミハエル・シューマッハは近代F1の「団体戦」の要素をいち早く察知し、フェラーリはそれをモノにすることで黄金時代を迎えることができた。「特別待遇」と誤解されることも多いが、彼はその環境を第三者に与えられたのではなく、その環境を自分で作っていたのである。

シューマッハは、プロセスとリザルトの両面において、頑固なティフォッシを実力でねじ伏せた。彼のF1ドライバーとしての評価もさることながら、史上最強のフェラーリドライバーであるということも覚えておきたい。

シューマッハのいないF1にはすぐ馴染めると思う。だが、シューマッハのいないフェラーリには馴染めるかどうかは分からない。新たにマラネロの門を叩くキミ・ライコネン、そのスピードとテクニックはシューマッハと比しても何ら遜色ない。しかし、フェラーリドライバーはそれだけでは務まらない。

世代交代は加速するだろう。けれども、「いなくなってはじめて分かる存在感」とでもいえばいいのだろうか、おいそれとすぐには置き換えの効かないものがあるはずで、私はそれを来年のF1の見所にするつもりだ。

ごく私的な『鈴鹿グランプリ20年史』

1987

物心付いた頃から大好きだったF1。でも、それは全て遠い遠い世界のおとぎ話。ホンダが勝つと数日後の新聞にデカデカと全面広告が載る。何週間か遅れて自動車雑誌の片隅にレースレポートが載る。週末の昼間とか忘れた頃にちょこっとダイジェスト放送が流れる。生中継やライブタイミングどころか、専門誌さえなかった。いつだったか、鈴鹿サーキットのファン感謝デーに展示されていたウィリアムズ・ホンダを見た。その日が来るまで、本物のF1マシンを見たのはその一度っきりだった。

1987年10月31日、夜明け前に家を出て、親父のシビックが名阪国道を東に進む。こんな時間なのにサーキットの周辺は大渋滞。車を停めて、ゲートまで歩き、ぐるっと右回りに2コーナーに付いた頃、もうお日様は天高く昇っていた。朝のフリー走行が始まろうとしている。ピットの方から、けたたましい爆音が聞こえてくる。これがF1、テレビじゃ分かんない、生のF1なのだ。

予選、ポールポジションはフェラーリのゲルハルト・ベルガー。3コーナーからS字へ、他の誰よりもワイドなラインで飛び込んでいく。アクセルを開けるのも一番早い。肉眼で見ても際だった速さ。日曜の決勝もそのまま逃げ切って優勝。現金なものだが、フェラーリとベルガーのファンになった。ピケもプロストもセナも中嶋も眼中になかった。フェラーリ・イズ・エフワン、エフワン・イズ・フェラーリ。

1988

あれから1年。時代は空前のF1ブームに突入しようとしていた。深夜とはいえ、テレビ中継でF1が見られるようになった。専門誌が次々と創刊されるようになった。月曜の朝、「エフワン」が男の子の話題の中心になる。それを目当てにF1を見ていたわけではないが、F1に詳しいというだけで、回りに女の子が集まってくる。一番人気はやっぱりセナだった。中嶋悟に期待しない子はいない。マンセルのファンも多かった。プロストやピケが好きな子も少なくなかった。一方で、ベルガーが好きな子はクラスで私一人だった気がする。

2年目のF1。赤字に黄色のワッペン、跳ね馬のキャップを被って鈴鹿入り。チケットがなかなか手に入れられず、この年はスプーンカーブの仮説スタンドで我慢。ここは目の前でマシンが見られる時間こそ長いのだが、大きく見えるのはほんの数秒だけ。西ストレートに向かって加速するマシンのお尻を眺めるしかない。

そんな場所だったからこそ、気付いたことがある。スプーンカーブの進入から脱出まで、みんな音が違うのだった。マッチャンカーブを抜けてきて、多くのドライバーは5速のままスプーンまで引っ張る。でも稀にスプーンの手前で一瞬6速に入れるドライバーがいる。また、“パンバン”といきなり3速に落としてスプーンに回るドライバーもいれば、1つ目を4速、2つ目を3速と細かくシフトするドライバーもいる。

最も細かいドライビングをしていたのがセナだった。同じマシンのプロストと、音が全く違う。予選タイムはほとんど変わらないが、最後にちょこっとセナが上に出ているのは、きっとこの差なんだろう。雨の中、出遅れたセナが先行するプロストを抜いて優勝、初のワールドチャンピオン人になった。後日、セナ曰く「スプーンカーブで神を見た」と。スプーンにいた私には神はみえなかったが、セナのドライビングが神業にみえた。

1989

古舘伊知郎がF1実況をはじめたこの年。強いホンダ、速いセナ、憎いバレストル、ズルいプロスト、このキャラクター設定の是非は横に置くとして、古舘が構築した分かりやすい人間模様のおかげで、F1人気はますますうなぎのぼり。好き嫌いは分かれるだろうが、古舘の実況は下位を走っているドライバーのこともちゃんとフォローしてくれるので、私は好きだった。

この年、はじめて金曜、厳密に言うと木曜の夜から鈴鹿に乗り込んだ。学校にはテキトーな言い訳を付けとどけたが、先生にはちゃっかりバレていたことだろう。「予備予選」が見たかったのだ。当時のF1はエントリーしている台数が多く、予選(Qualifying)に出るためのもう一つの予選(Pre-Qualifying)が行われていた。Pre-Qualifying、略してPQという。

予選に出走できるのは30台。そのうち4台分が予備予選枠になっており、その枠を巡ってランキング下位の12台が1時間の戦いを繰り広げる。ここで落ちたら、予選には進めない。ここを通っても、さらに本予選を突破しなければ日曜の決勝に進めない。予選落ちすらない現在のF1からは想像だにできない熾烈な生存競争が行われていた。

この年、日本の鈴木亜久里(ザクスピード・ヤマハ)は予備予選組。しかし開幕から14戦連続して予備予選不通過。「鈴鹿ならイケるかもしれない!」の願いむなしく、ここも不通過。しかも僚友のシュナイダーがこの関門を突破したので、亜久里の株は急落。鈴木亜久里は最終戦も予備予選落ちで、おそらくこの先、誰も破ることができないであろう、全戦予備予選落ちの記録を作った。

レースは2コーナーのスタンドで見た。角度の関係で場内ビジョンが見にくく、セナとプロストに何があったのか、よく分からなかった。爆音と歓声と悲鳴で場内実況も聞き取りにくかった。フロントウイングを壊したセナが来たが、待てども待てどもプロストは来ず、次の周回、セナが来る前にナニーニが来た。何周かして、ナニーニの前に再びセナ。そしてセナがそのままトップでチェッカー。9対0ならチャンピオン争いは次のレースまで持ち越し。ここから表彰式は見られないのでウイニングランの各ドライバーに拍手し終えると、駐車場へ歩き始めた。早くいかないと、駐車場を出るだけで何時間もかかるのだ。

家に帰って、ビデオでレースを見る。「えっ、セナ失格!?」。やけに駐車場の出口がすいているように感じたのも、リザルトの確定に時間が掛かって表彰式がなかなか行われなかったせいだったらしい。どっちみち2コーナーの客には関係のない話か。こういう荒れたレースは、テレビで見た方が、情報が整理されているので分かりやすいのだった。

1990

「金返せ!」と言いたくなった。

この年、F1ブームは沸点に達した。チケットをどうやって手に入れるか、日本グランプリは春から始まっていた。親戚という親戚の名を借りまくって、なんとか抽選を突破。シケインの席をゲットした。

土曜日、セナ・プロストの息を呑む予選の攻防。研ぎ澄まされたセナのドライビング、美しく流れるプロストのドライビング。かくも人生観が違う2人の天才が、同じ時代に存在したということ。当の本人同士はさぞかし恨んでいたに違いないが、見る我々にはこの上ない幸せであった。

日曜日、決勝。フォーメーションラップ、セナの巧みなペース配分、既に2人の駆け引きは始まっていた。スタート、いきなり2台が接触コースアウト。待ちに待った頂上対決だというのに、セナもプロストも一周もしないままレースを終えた。まぁいいだろう、これでトップはベルガーになった。「いけ、ガーティー!」、スタンドの大半を占めるセナファン・プロストファンが一気に消沈する中、ごく一部のベルガーファンが気炎を上げる。ところが2周目、ベルガーは、さっきの接触で撒き散らされた砂に乗ってスピン、リタイヤ。やってられん。かわってトップに立ったのはマンセル。そのマンセルもレース中盤にリタイヤするのだった。終わってみればベネトンがワンツー。優勝はピケ。予備予選組から這い上がった苦労人が脇を固める、2位にモレノ、3位に鈴木亜久里。

ここだけの話、F1は日本人が表彰台に上がるようなことがあってはいけない場所なんじゃないかと思っていた。いつか日本人が表彰台に上がる日が来ればいいなと妄想することはあったが、そんな日がいきなりやってくるなんて全く予期しなかった。怒号にはじまりうれし涙に終わったこのレース、私は生意気にも「次、こんなことがあるのはいつだろう。いや、もう二度とないのではないか。」、そう思いながら帰路に就いたのだった。

1991

オカンのパート先の社長がレイトンハウスの中の人と親しいことが判明。コネにコネをコネまくって、念願のメインストレートのチケットを手に入れた。服部尚貴が走るということもあって、予備予選から見る。詳細な順位は覚えていないが、コローニの服部は最下位、デッドラインの4位にフォンドメタルのガブリエル・タルキーニが滑り込んだ。

中嶋の鈴鹿ラストランも気になるところなんだけど、やっぱりマンセルとセナのチャンピオン争いに焦点が集まる。ウィリアムズ・ルノー有利の下馬評も相当あったが、ふたを開ければマクラーレン・ホンダが圧倒的優位に立っていた。セナ、ベルガー、予選で1分34秒台のフライングラップ連発。マンセルは3番グリッドを手にしたが、前の2台には到底追いつけそうにもない。ベルガーが好スタートから逃げる。セナは2番手でマンセルを抑える。ベルガーが逃げ切って10点を取れば、セナはチャンピオン決定。分かりやすい作戦だった。

しかし、焦ったマンセルが序盤に自滅しちゃうもんだから話がこじれてしまった。捨て身の逃げに出たベルガーはタイヤを消耗。対するセナは後ろのマンセルをマークする必要が無くなり、ここぞとばかりにペースアップ。ベルガーはあっさりセナに抜かれてしまう。ベルガーファンとしては、一年間何度も見てきた理不尽な光景を、ここ鈴鹿でもまじまじと見せつけられてしまった。終盤、エキパイが割れて変な音と匂いを撒き散らすようになったベルガーとは対照的に、セナは快調に飛ばしファイナルラップに入る。シケインでセナが少しペースを落としベルガーが追いついた。どっかの耐久レースのように2台揃ってチェッカーを受けようというのか。なんという余裕だ。

ところがセナはただ待つのではなく、ベルガーを前にいかせた。ベルガー1位、セナ2位でゴール。スタンドはどっちらけ。結果を賭けてる人(ゑ?)もいたりして、怒り始める人もいる。ベルガーのファンにしても優勝の喜びなんて全くない。むしろ、「こうでもしないとお前は俺に勝てないんだ」と念押しされたようで、ムカつく。ベルガー自身も怒っていた。ロン・デニスがバケツでパフォーマンスをしたのは、表彰台の空気が悪かったからだ。真ん前で見ていたんだから間違いない。

家に帰ってビデオを見たら、あの白けまくった場面が美談にされている。解説の今宮純に至っては泣いてる有り様だ。あのオッサン、特等席に座りながら、一体どこを見てたんだろう。元々、大概うさんくさいオッサンだと思っていたが、この日を境に一切信用できなくなった。早よ辞めりゃいいのに、未だに解説席にふんぞりかえっている。これといった専門知識があるわけでもなく、関係者に顔が利くわけでもない今宮が、20年間、まともな解説を一度もしていないのに、なぜ「解説者」でいられるのか、謎である。スタンドで見た人と、テレビで見た人とで、印象や評価がこれほど両極端に割れるグランプリはないだろう。

鈴鹿ラストランの中嶋は、堅実に順位を上げて入賞圏内にも手が届くところまで押し上げたものの、S字でクラッシュした。中嶋は、5年間のF1キャリアの中で、特筆すべき成績は雨のアデレイドの4位入賞・ファステストラップくらいしか残せなかった。しかし、中嶋の挑戦、パイオニアとしての功績は永遠に記憶されるだろう。

そうそう、予備予選を最下位で通過したタルキーニが、本予選を24位で通過。決勝は最後尾ながら見事に11位完走。ドッチラケのワンツーフィニッシュをよそに、タルキーニのチェッカーには、予備予選マニアをはじめとする多くの観衆から盛大な拍手喝采が送られた。鈴鹿で予備予選が行われたのは、この年が最後になった。

1992

ブームは一段落したとはいえ、まだまだチケット入手は超困難を極めていた。レイトンハウスの社長が不正経理で逮捕・起訴され、F1チームも空中分解。頼りにしていたコネも失う。抽選にはことごとく外れ、四面楚歌。どうしても見たい。最後のホンダミュージックをこの耳で聴かねば一生後悔する。

同じく抽選に外れた友人3人といわゆるN山の自由席に突撃することにした。野宿一泊のプランを立て、土曜の朝一番、難波発の近鉄特急に飛び乗り鈴鹿入り。予報通りの雨、最悪だ…。予選が始まる頃には雨量最大。マシンはなかなかコースに出てこない。出てきても一周だけでピットに戻る。ホンダミュージックも何もあったもんじゃない。右京も、ハッキネンも、シューマッハも出てこない。

豪雨の中、寝る場所を考える。普段のF3000のときなら、正面のゲートのあたりで寝られるのだが、F1のときは、人が多すぎて場所取りされたあとだ。カラオケボックスやいざとなればラブホテルという手もあるのだが、開門と同時にダッシュしないといけないので、サーキットを離れたくはない。結局、正面ゲート付近の、屋根もない場所にテントを張り、凍えるようにして夜を明かす。

日曜は晴れたが、体調最悪。お目当てのセナは3周でリタイヤ、マンセルも同じ場所でエンジンブロー。優勝はパトレーゼ、2位にベルガー、3位にブランドル。右京がフェラーリをブチ抜いたらしいが、ビジョンが見えないのでさっぱり分からない。自由席でF1見ても、音と雰囲気しか味わえない。なにしろ一瞬しかマシンが見えない。帰宅後、風邪で寝込む。素直にテレビ観戦にしとけばよかった。

1993

この頃、フェラーリは絶不調。90年のスペイングランプリから優勝が一度もない。この年、ベルガーがフェラーリに復帰した。思えば87年の日本グランプリのベルガーの優勝も、当時続いていた連敗記録に終止符を打つ1勝だった。フェラーリが少しづつ調子を取り戻して迎えた鈴鹿。奇跡よ再び! フェラーリグッズを身にまとい、模擬試験をパスして、金曜日から鈴鹿入り。

ハイテクF1、最後の年。アクティブサス、TCS、ABS、そして鈴鹿ではベネトンが4WSを投入するときた。当時、このテクノロジー満艦飾のF1を「誰が乗っても速く走れる」と揶揄する人が多かったのだが、いかがなものか。

テクノロジーがドライバーの作業をアシストしてくれるからといって、ドライバーは楽になるわけではない。テクノロジーの有無にかかわらずドライバーは持てる道具の力を最大限に引き出そうとする生き物であり、いうなればAの必要が無くなってもAに使っていた労力をBに回すのである。

土曜の予選は、それがよく分かった。いくつかの作業が機械的に自動化されても、最終的にハンドルを握りペダルを踏むのはドライバー。どんな車を使っても、速い人は速く、上手い人は上手い。ヒルはいまいち個性を感じない可もなく不可もないドライビング、ベルガーは130Rをベタ踏みで回ってくるがシケインのブレーキングが甘い、ハッキネンは他のドライバーとは少し違う個性的なラインを通る、シューマッハのブレーキングポイントは他のどのドライバーよりも奥だ。そして、終わってみれば、そんな連中の前にプロストとセナがいる。技量もさることながら、プレッシャーのかかる最後のアタックにおける集中力が違う。これは機械ではどうにもならない。この2人は格が違うのだ。

決勝、ドライで始まったレースはプロストの勝ちパターンで進む。ところが雨が落ちてきた。水を得たセナ。既にタイトルを確定し、引退も発表していたプロスト。セナが迫ってきても全く抵抗せず。セナ、あっさり逆転、そのまま逃げ切る。

本格的な雨の中でレースするセナを生で観るのはこれが初めて。1台だけ、目に見えてスピードが違う。他のドライバーが同じスピードで突っ込んでくると止まりきれない、曲がりきれない。雨が上がりコースが乾きはじめる。セナはいち早くスリックタイヤに履き替えた。乾いたといってもライン外すとまだ完全にウエット状態のコース、それでもセナはラインを外して周回遅れをかわしていく。ありえないマシンコントロールだ。どんな道具を使っていても、操縦しているのは人間だ。だからF1は面白いのだ。

鈴鹿で見るセナの勇姿はこれが最後になった。セナが走るレースを8回見たが、このレースのセナが一番すごかった。

1994

セナもホンダもいない日本GP。でも楽しみがなかったわけじゃない。なぜなら片山右京がいたからである。なーんかどんよりとした暗い雰囲気だったこの年のF1にあって、白に水色の明るいカラーリングのティレルを駆って、上位のドライバーに勇猛果敢に挑戦していく片山右京の存在はキラリと光っていた。スタートの混乱をすり抜け2位まで上がったホッケンハイム。壊れてなきゃ優勝が狙えた。スパ、モンツァ、エストリル、ヘレス、結果にこそつながらなかったが4戦連続怒濤の“ごぼう抜き”。シューマッハが、ヒルが、ハッキネンが、バックミラーに映る右京にビビっていたのだ。

ひょっとするとひょっとして、鈴鹿では表彰台どころかポールポジションや優勝も夢ではないという期待感があった。日本人ドライバーが主役のグランプリ。主役不在のグランプリなんて言わせない。金曜から行きたかったのだが、どうしても都合が付かず、土曜の朝に現地入りすることになった。金曜の予選は関西では中継がない。仕方なく夜のスポーツニュースを待った。お目当ては右京のみ。きた。デグナーカーブの2個目、3速にシフトダウンすべき場所でギヤが落ちていなかった。オーバースピードになってしまいダートに片輪が落ちる。ポールどころか真ん中より下だ。予選2回目での巻き返しに期待して鈴鹿へ向かうわけだが、予選始まる午後が近づくにしたがって傘をさす意味がないほどの暴風雨。グリッドは金曜の順位で確定した。

日曜、レース前に、フジテレビによるセナのセレモニーがあった。言っちゃ悪いけど、もうセナは過去のドライバー。セナがいなくなって悲しいのはみんな同じ。でも、セナがいなくなってもF1はF1だし、だからこそこうやって日本GPが予定通り開催されるのだ。ドライバーもクルーもファンも、悲しみを振り切るようにして半年間を戦ってきた。1年が終わりに近づいた鈴鹿で、しかもレース前のグリッド上で蒸し返す必要は全く無かったし、これからレースをする人たちに失礼だと思った。まったく、いつまでセナにしがみついてるんだ。結局、フジテレビはセナグッズが売りたいだけなのだ。

11月6日、例年より何週か遅い鈴鹿グランプリ。雨がしとしと肌寒い。右京は序盤にクラッシュ。全然不発の週末に終わった。2ヒート制のタイムレースになった。ルールをよく分かっていないアホなマンセルがいたおかげで、スタンドは盛り上がる。シューマッハがヒルを追いつめたがわずかに届かず、ヒル優勝。マンセルとアレジはファイナルラップまで真剣に戦った。手に汗握る優勝争いも面白かったが、無益な戦いに全力を傾注するマンセルとアレジの攻防こそ、世界の一級品、本物のプロフェッショナルを見せてもらった。世界は広い。もっともっと頑張れニッポン!

1995

F1倦怠期に突入。シューマッハが強すぎる。追いかけるヒルやクルサードがヘボすぎる。右京は新人のサロに負けている。それでも観に行く。翌96年、シューマッハがフェラーリに移籍することになり、アレジとベルガーはこの年限りでマラネロを追い出されることになった。同時にフェラーリはV10エンジンの開発をすすめており、フェラーリの伝統である12気筒エンジンもこの95年限りでお蔵入りとなる。

英田のパシフィックGPと2週連続開催で、金がなかったので、スプーンの観覧席で我慢。決勝はまたしても雨模様。徐々に乾いていきゴールの頃にはすっかりドライコンディションのレースになっていたが、屋根のないスプーンのスタンドは、どこからとなく泥が流れ込み、人混みで蒸し蒸しするわ、悲惨だった。それにしても、フェラーリのV12エンジン、音だけは毎年最強だ。甲高いサウンド中にも重厚感がある。アレジもベルガーもアクセルを煽るタイプのドライバーなので、スプーンの進入ではオーバーレブの爆発音が堪能できた。F1の醍醐味の一つである音を楽しむならスプーンかヘアピンに限る。

英田から大阪に帰るバスで、パシフィックチームのスタッフといっしょになったのが最高の思い出。予選通過に青息吐息の弱小チームだけど、彼らはグランプリを心から楽しんでいる。ガショーにサインを貰った。ありがとう、応援するよ。でもガショーはこの年限りでF1を去っていった。いま、どこ、なにしてる?

去るといえば、鈴木亜久里。予選で大クラッシュして、ヘリで運ばれていった。予選後に引退会見をセットしていたが、当然中止。日曜は欠場。そのままF1からフェードアウトした。クラッシュはF1の華。クラッシュしたマシンから颯爽と飛び降りてスタンドに手を振るドライバーはカッコいい。しかし、怪我をして自力で降りられず、レスキューに担ぎ出されて、病院へ送られるドライバーは見たくない。

1996

スポーツの見所はたくさんある。キャリアのピークにある選手たちによる研ぎ澄まされたプレー。これも一つの楽しみだ。鈴鹿のF1にはチャンピオンシップがかかったままもつれこんでくることが多かったので、そういう勝負を何度もみてきた。

しかし、私はどちらかというと、そうではない楽しみ方が好きだ。たとえば、アスリートとしての頂点を超えてしまった選手が、最後にもう一花咲かすべく戦いに出て行く。その刹那に惹かれる。また、モーターレーシングは、道具を使う競技である以上、実力に反して道具の差で順位が決まることが多い。けれども、劣った道具でもへこたれず優れた道具に挑戦していく選手がいる。チャンピオンを決めるだけならチャンピオンだけでレースをすればいい。でも、グリッドには20数人が並んでいる。色んなレースがあるのだ。

デイモン・ヒル。彼の乗るクルマは、グリッドに並んだクルマの中で一番速い。なのに、負けるのだ。回りがプレッシャーを掛けるもんだから、しなくてもいい冒険をして自滅するということもしばしば。回りのドライバーからは「(クルマを交換したら)ヒルより速く走る自信がある」と言いたい放題だ。

そのヒルがワールドチャンピオンに王手をかけて鈴鹿にやってきた。ヒルにとっては最後のチャンス。彼はもうすぐ、この最速のマシンを手放さねばならない。ここぞという場面で遅かったヒルが、この日だけはここぞという場面で速かった。自らの手でつかみ取った、親子二代のワールドチャンピオン。あの日、鈴鹿のヒルを見た人ならば、二度とヒルの陰口を叩いたりしない。

もう一つの戦い、片山右京。ほんの2年前、世界の頂点がうっすら見えていた右京も、その後は不調つづき。ドライビングスタイルに合わないレギュレーション、体格に合わないニューマシン、いつの間にか僚友優先になっていたチーム体制、意地をみせようにもクルマが付いてこない、やっと出番が来ると思いきやクルマが壊れる。クラッシュで大怪我もした。引退の影がちらつきはじめた。

でも、この日の右京は違う。「神風右京」はまだ死んでいなかった。にっくきミカ・サロを強引にブッコ抜く。フェルスタッペンにブレーキテストを喰らいフロントウイングを破損。それでもあきらめず、このオランダ野郎を右に左に煽り立て、フロントウイングが外れたらヤバイのに130Rまで丸一周煽りつづけた。周回遅れなのに道を譲らなかったかどでペナルティをもらうが、周回遅れだってレースしとるんじゃ! 最後は例によってエンジンが音を上げてリタイヤに終わったが、右京のキレまくったレースに日本男児の意気を知る。

10年目の鈴鹿。レースには色んな楽しみ方がある。

1997

金曜日、右京が記者会見。今シーズン限りの引退が発表された。87年から鈴鹿の皆勤賞だったベルガーも、どうやら今季限りで引退する模様。陽気とは対照的に、冷たい風が身に染みるグランプリになった。11年目にして、はじめて女性同伴で観に行った。いまその人は、嫁さんだ。誘う相手を間違えた気がしてならない。

土曜夜の前夜祭に右京が登場。色んなドライバーがステージに上がったが、右京への声援は一際大きい。この年、右京が乗るマシンは、グリッド最後尾が指定席のミナルディ。若手ドライバーが登竜門とするチームに、右京は経験を買われてやってきた。予選では、前を狙うのではなく、予選落ちしないように走るのが仕事。決勝では、バトルになる相手がほとんどいない。いつもどこかが必ず故障している車を、だましだましゴールまで完走させるのが仕事。日本グランプリだからといって、間違っても入賞なんて望めない。それでも右京は走る。それでも右京を応援する。レースは、何が起こるか分からない。しかし、願いむなしく、右京のレースは10周ほどで終わった。

コースでは、ヴィルヌーヴとシューマッハのチャンピオン争い。それぞれの相棒、フレンツェンとアーバインはともに全日本F3000出身で鈴鹿を知り尽くしている。4台の攻防にベネトン、マクラーレンが絡み、混戦になる。とにかくこの年は、大きなレギュレーション改訂がない時期だったこともあり、近年まれに見るほど上位と下位が接近していた。グリッド中段が指定席のマシンでも、セットアップがハマって1秒上げられれば予選5位以内に来られるほど僅差のシーズンだった。

1~2コーナーの中間で見ていた。S字に入っていくマシンが異様に速かった。F1マシンのコーナリングスピードの高さを顕著に感じた最初の年だった。F1は、11年前とは、全く違う乗り物に進化したらしい。シューマッハが勝ち、ヴィルヌーヴは5位に入ったが黄旗無視で後日失格になった。最終戦・ヘレス、あの接触事故への布石が敷かれた。

1998

第二次F1倦怠期。ベルガーも右京もいない。まだジャックとかアレジとかハッキネンとかいるし、日本人ドライバーも高木に中野といるけれど、見所が失せてしまった感強し。

鈴鹿は鈴鹿でも競馬のサイレンススズカの方に心奪われ、日本GPには目もくれず、府中競馬場の天皇賞を観に行く。

念願のワールドチャンピオンになったハッキネンには大変申し訳ないが、この日のことは、できれば思い出したくない。

1999

引き続き、第二次F1倦怠期。 「F1史上、最もつまらなかった時代は?」と問われたら、真っ先にこの1998年と1999年を挙げる。何がつまらないのか分からないほどつまらない時期だ。見にいったことは覚えているのだが、何を見たという記憶がほとんど無い。

シューマッハがイギリスGPで両足骨折の大怪我をしたシーズン。シューマッハに代わってフェラーリを牽引してきたアーバインと、2年連続タイトルを目指すハッキネンのチャンピオンシップ争いは僅差で最終戦・鈴鹿にもつれこんだ。フェラーリは前戦マレーシアGPからシューマッハが復帰。アーバインは展開次第でシューマッハという最強のセカンドドライバーの援護を受けられる。

ところが、アーバインが不発。シューマッハにしても、援護をしてあげようにも、後方にいるアーバインを援護する手立てがない。結局、アーバインというドライバーは、スピードもガッツもある優秀なドライバーであることは確かなんだけど、チャンピオンになる器にないというか、最後の一押しが足りないドライバーだったということか。シューマッハ、後ろを待ちながら逃げ切って優勝。2位に入ったハッキネンが、見事にワールドチャンピオン決定。

上位の争いは面白かったんだけど、他にこれといった見所がないので、この頃のF1は退屈だった。

2000

そうだ、フェラーリ・イズ・エフワン。エフワン・イズ・フェラーリ。フェラーリが強くないから面白くなかったのだ。シューマッハがフェラーリにやってきて5年目。ついにフェラーリが王座に返り咲く日がやってきた。

予選からハッキネンとシューマッハのマッチレース。得意のピットストップ作戦で前に出たフェラーリが、これを突き放した。メインスタンドのやや1コーナー寄りで観戦。ファイナルラップを終えたシューマッハのフェラーリが最終コーナーを回ってコントロールラインを通過する。1979年以来21年ぶり、フェラーリドライバーがワールドチャンピオンになった。ここから約5年間、あまりに速すぎて退屈だと言われるくらい強いフェラーリの時代が始まる。

今でこそ事あるごとに「フェラーリ贔屓だ」と叩かれるほどの存在であるが、ミレニアム以前のフェラーリは弱かったんだぞ。しかも強くなり過ぎたフェラーリとシューマッハの首を絞めるために、人為的なレギュレーション改定を繰り返した。これってイジメ以外の何物でもない。F1がつまらなくなったのはフェラーリのせいではない。フェラーリへのやっかみでF1をイジくったヤツのせいだ。それでもことごとくフェラーリは勝ち続けたのだ。これで贔屓とかいわれたんじゃ、やってられん。

エフワン・イズ・フェラーリ。フェラーリ・イズ・エフワン。ホンダやルノーがF1活動を休止するすることがあっても、フェラーリはF1のグリッドに並び続けてきたのだ。F1の「F」は Ferrari の「F」だ。文句あるか、こら。

2001

アレジ、最後の鈴鹿。ほんと、このアレジってドライバーは、生まれてくる時代を間違ったとしか言いようがない。歯を食いしばってブレーキングを我慢して、クルマがちょっとぐらい滑ってもエイヤー!っと力づくで曲げちゃう、おおよそ滑らかにミス無く走ることが絶対の、ドライバーというよりはパイロットと呼んだ方がいいような気もする現代F1には全くそぐわない本物のドライバー。世界中にたくさんのファンがいるアレジだが、鈴鹿の数ヶ月前にジョーダン・ホンダへ移籍したこともあって、鈴鹿ラストランでは「ホンダ・ドライバー」としていつも以上の大声援が送られることになった。金曜フリー走行でトップタイムを叩き出すと、スタンドからやんやの歓声。金曜日からこれだけファンに火を付けるドライバー、他にはいない。

さて、鈴鹿にはいくつものF1観戦ポイントがあるが、シケインはドライバーの資質を見極めるのに適した場所だ。座席がメインスタンドでも、オペラグラスを構えてじっくり見るといい。シケインに進入するライン、速度、ブレーキングポイントの3つに絞って観察すると、運転の雑なドライバーを発見できる。多少、マシンのセットアップや重量によって違いが出ることはあるが、運転の丁寧なドライバーは金曜の走り出しから一貫して丁寧に通過する。慎重なドライバーは金曜朝、金曜昼、土曜朝と少しづつ攻め込んでくる。

この年、私はライコネンをひたすら観察した。前代未聞、仮免許のスーパーライセンスでF1にデビューしたライコネン。速いことに疑問はない。ただ、どうも運転が雑というか、小さなドライビングミスの多いドライバーという気がしていた。もちろん経験が浅いので、ある程度は仕方のないことなのだが…。初めての鈴鹿。ライコネンのシケインでのドライブは、それはそれは荒かった。130Rが上手なのか突っ込んでくる勢いはそれほどバラけないのだが、シケイン手前のブレーキポイントは周回ごとにバラバラ。速く止まりすぎて慌ててスロットルを開けると出口に付く前にテールがスライドしてしまう。こうなると直線に向かって加速しない。また、減速が不十分だとアンダーを出してタイヤをコジって傷めてしまう。

同じようなドライバーがもう一人いる。それがアレジ。この人は、もう10年以上にわたって鈴鹿を走っているのに、一向に上達しない。いや、別に運転が荒いからといって、運転が下手糞とかそういうことではない。ただ、荒いということは、現代F1では他のスムーズなドライバーに対してほんの少しのロスが生じてしまう。ミス1回あたりコンマ5秒のロスでも、10回やると5秒になる。ギヤチェンジの瞬間の駆動が抜ける一瞬さえ惜しんで開発が進む現代F1において、ドライバーが失うわずかな時間はなんとも無駄な時間なのである。

鈴鹿のシケインは、現代F1に向かないドライバーを探すのに適している。そういうわけで、私の中でライコネンというドライバーに対する、好き嫌いを抜きにした純粋な評価はあまり高くない。もう少し昔に生まれてきた方が、彼の才能はもっと鮮やかに花開いたことだろう。

アレジ、クラッシュでリタイヤ。アレジらしい終わり方。また1つの時代が終わろうとしている。F1マシンはとめどなく進化するが、人間はそうそう進化しない。人間はF1マシンに抜き去られてしまったようだ。

2002

仕事の関係で、9月からアメリカに滞在。チケットだけは手配できていたので一時帰国して観に行ってやろうかとも思っていたが、断念。嫁(というかまだ入籍する前だったんだけど)、私を置き去りにして1人で帰国して観に行きやがる。

こんなときに限って、カンカン照りのいい天気、佐藤琢磨が快走する。ホンダ名物、エンジンブロー。琢磨は壊れるタイミングがよく、本番で壊れなかった。何を言っているのか、半分くらいしか意味の分からない英語のテレビ中継を見る。5位は、与えられた環境の中で望みうる以上のリザルト。琢磨に拍手。よくやった。

観に行くべきだったか。悔やまれる。

2003

ホンダにチケット回してもらった恩義は重々承知の上で敢えて言う、「金返せ!」と。

グランプリ開幕の前日、木曜日、BAR・ホンダのジャック・ヴィルヌーヴが日本グランプリに出走しないことになった。代わってリザーブドライバーの佐藤琢磨がハンドルを握る。ジャックをお目当てに、応援グッズ仕込んで鈴鹿に乗り込んだファンには、あまりに冷たい仕打ちだ。そりゃ琢磨が出るのは嬉しいよ。でもさ、でもさ、あっちはしょせんテストドライバー。本番に出てくると期待してチケット買った人はいないわけだ。でも、ジャックは違うぞ。ジャック見るために何万もするチケットを買ったんだぞ。帰ってやろうか、真剣にそう思ったさ。帰れへんかったけど…。

お目当てがいなくなって心にポッカリ穴が開いてしまった。金曜のフリー走行で本山が走ったのは、この年だったかな。日曜まで惰性で観戦。クラシックコンサートを聴くような、ボーっとした感覚で、なんとなく雰囲気だけ楽しんで帰ってきた。琢磨も下位で終わったし、これといった記憶がない。こんなになんにも覚えてなくていいのかってくらい、何も覚えてない。生のエグゾーストノート付きの大型画面を見に鈴鹿まで出かけて行ったような感じ。まぁ、何回も行けば、一度や二度のハズレもあるわな。

2004

グランプリにあわせて台風がやってきた。天気予報によると、土曜にモロ直撃するコース。金曜日から土砂降り、フリー走行が始まってもマシンがなかなか出てこない。出てきたと思ったら、あっちこっちでスピン。肉眼で見える最終コーナーのあたりだけでも2~3本の大きな川が出来ている。2コーナー、逆バンク、スプーンにはもっといっぱい川があったんじゃないかな。

金曜のセッションが終わったあと、山田池があふれそうという噂が駆けめぐった。その近くに基地を構えていたフジテレビの機材が水没する可能性があるとか大げさな話になっていた。いっそのこと沈没してしまえばよかったのだ。そうすれば、来年からNHKが中継してくれたかもしんないのに。などと冗談を言っているうちに日が暮れ、噂は真実だったらしく、翌土曜のセッションが全て中止されることになった。遊園地にも入れてもらえないという。名古屋のホテルに缶詰め。嫁はエステ三昧。アロエがどうのこうの、知るかボケ。私は何もすることがないので、バーでぐてんぐてんに酔っぱらうまで飲み、寝て過ごす。

日曜、朝一番、いきなり予選。二日酔いの五臓六腑に、むかえ酒のビールを流し込み、こっちの準備は朝からもう出来上がってる。少しづつ路面が乾いていく、あとから走るドライバーが有利なコンディション。1人づつアタックする予選方式は、こういうときにつまらない。佐藤琢磨の順番が来た。本来ならフロントロウも狙えるのだが、このコンディションでは無理。ベストを尽くす他ない。シケインのブレーキング、縁石で滑った。目の肥えたファンは、絶対にスピンすると思い、「あー」と溜息を漏らした。ところが、次の瞬間、琢磨のマシンがあり得ない動きをした。すんでのところで踏みとどまったのだ。地元のグランプリ、普段はあり得ない力が出る。琢磨、予選4位、日本人ドライバーによる日本グランプリ予選での最上位記録である。

決勝、序盤、琢磨は自分より燃料を多く積んだバトンに先行を許してしまった。チーム側がしっかりオペレーションして琢磨を早く前に出してやればよかったのが、判断が遅れる間にタイムロス。ペースを上げられなかったのが響き、表彰台には一歩届かない4位に終わる。帰り道でもバトンに文句を言うファン多し。しかし、上位陣がリタイヤしたわけでも、不可抗力で混乱したわけでもない、ガチンコの決勝レースで日本人ドライバーが4位なのだ。悲観することはないと思うぞ。棚ぼたで表彰台に上がるより、こっちの方がスゴイことじゃないか。そもそも、ほんの数年前まで、日本人が走っているということ自体、奇跡だったのだ。そう焦るな。目標までゆっくり時間を掛けた方が、達成感が大きく膨らむというものだ。

2005

今年もありがとう、ホンダ様。なんとピットウォークまで手配してくれた。BARホンダの前は黒山の人だかり、とても寄りつけそうになかった。フェラーリも同様。ザウバーの前に張り込んで、ジャックのサインを貰おうとしたが、ヤツときたら女にばっかりサインしやがる。嫁はホンダ同様に人大杉のトヨタに特攻して、トゥルーリのサインをもらってきやがった。どうして、F1ドライバーは女に甘いのか。もう応援したれへんぞ。

レース30分前、フジテレビが盛り上げようと必死こいて、興醒め。なんで社員でもない一般ピープルが、番組スポンサーの機嫌を取るために企業の旗を振らされにゃいかんのか。デカデカと風呂敷で覆い尽くされた日にゃ、グリッドに並ぶF1マシンが見えないじゃないか。どこの国でもやってることとはいえ、もっと自然にやってほしい。

過去18年、色んなF1を見てきた。F1には色んな楽しみがあることを、この身を持って知ってきた。近頃のフジテレビのやり方には、そういったものを全てを否定されているような気を禁じ得ない。DJ風の場内放送も個人的には嫌いだ。GTじゃないんだから。昔のように、レースをちゃんと分かっている人に、落ち着いて実況してもらいたい。他人に煽られなくとも、目の前を猛スピードでカッ飛んでいくF1マシンを見るだけでギンギンになれる。大きなお世話はやめてくれ。

19回目の鈴鹿。佐藤琢磨はスタート直後の1コーナーでコースアウト。巻き返しが期待されたがトヨタに特攻、よくやった失格処分になった。このおかげといってはバチが当たるが、外野の連中のウザったさをよそに、今をきらめく一流のドライバーによる最高のバトルを堪能することができた。

シューマッハとアロンソ、130Rの攻防。接触でもしたら二人とも無事では済まないところ、さすがプロ中のプロ。鈴鹿では年中様々なカテゴリーのレースをやっているが、あのギリギリの攻防、あのドキドキワクワク感、F1でしか味わえない。ファイナルラップ、追うライコネンが逃げるフィジケラを捕まえた。ワンチャンスを仕留めたライコネン、お見事。ブロックが甘かったフィジケラ、集中力を欠いていたか。

「抜きにくい」とかいいながら、抜くべき場面ではちゃんと抜いていく。F1ドライバーはスゴい。人間離れした連中がやるレース。並の人間が仕立てた筋書き通りに進むわけはないのだ。

2006

F1日本グランプリ1987-2005~思い出は鈴鹿とともに最後の鈴鹿。もとい、またいつか必ず帰ってくると信じて、とりあえず一区切りの鈴鹿。

フェラーリが甦った。ホンダが強かった。セナは速かった。プロストは巧かった。マンセルはアホだった。ベルガーはカッコよかった。多くのチャンピオンが生まれた。レインマスターが光った。苦労人が栄光を掴んだ。日本人ドライバーが激走した。大逆転のドラマがあった。

20番目の名勝負。今年は何が起こるだろう…。

やっぱり、だめだこりゃ…

これはもうだめかもしれんね… のつづき

病院、行ってきた。電話であらかじめ症状を相談してから行ったので、問診のあと即検査。麻痺が糖尿病による合併症ということもあるので採血と検尿。それからレントゲンとMRI。そして筋電図。

この筋電図というのが、以前にも偏頭痛で一度受検したことがあるのだが、鬱な検査だ。パンツ一丁の上に薄手の白衣を羽織り、ベッドに寝かされる。その回りを若い女医と女助手が取り囲み、全身に電極を取り付けて微弱電流を流す。変な気が起きないようにこらえるのが苦しい。しかも水虫持ちの足を若い女性にしげしげと見られるのは、男として恥ずかしいを通り越して情けない気持ちになる。

さて、朝から一通り検査して、昼過ぎに再び診察室へ呼ばれ、診断。

病名は「ギオン管症候群」。なんじゃそりゃ…。

061004_01.gif手首の小指側のくるぶし状になっている部分から掌側に向かう筋肉があり、指を動かす尺骨神経がその中を通っている。この神経の通り道をギオン管という。その部分の神経が圧迫されているために手の小指側に痺れやこわばりが起きる。

私の場合、掌の中にガングリオンというゼリー状の良性腫瘍が発生していて、それが神経を圧迫している可能性があるとのこと。しかし、筋肉が腫れているので、ガングリオンの存在が神経を圧迫しているのか、ただ単に筋肉の腫れが神経を圧迫しているのか、今の段階では五分五分だという。

私は、昔から左手の小指に突き指の癖があって、野球の練習でキャッチャーをやったりすると、なんでもない拍子に軽い突き指をする。打撃でも、芯を外してしまっただけで小指に激痛が走ることがあった。筋肉の腫れは、それによるものである可能性がある。一方で、麻痺が起きてから3週間以上になり、筋肉が痩せ細っているにもかかわらず神経圧迫が続いているのは、それ以外の要因によるものとも考えられる。本当に五分五分、原因がどっちかは特定しにくいという。

とりあえず、筋肉の腫れを取る。腫れが取れない場合や、腫れが取れても症状が改善しない場合は、神経経路のクリーニングとガングリオンの除去、つまり手術を行うということになった。手術は日帰りで済むが、リハビリに時間が掛かるという。

当面の間、野球などスポーツは御法度(今季絶望…)。パソコンのキーボード作業も禁止(いきなり破ってますが…)。長距離ドライブも禁止(週末に名古屋まで往復しますが…)。消炎鎮痛剤、ビタミン剤、胃薬、湿布、指を固定する副子をもらって帰ってきた。

非常に不安である。神経の麻痺や鈍麻は気合で解決できないんだもん。


と、家に帰ってきて、早速「ギオン管症候群とは何ぞや?」と調べる。まったく同じ病気の有名人を一匹発見。なんと…、

オリックス中村が左手を手術

 オリックス中村紀洋内野手(33)が29日、入院先の福岡市内の病院で左手の手術を受けた。中村は左手関節痛のため、25日から検査入院。診断結果は「尺骨神経障害とギオン管症候群」で、手のひらを切開し、豆状骨の除去と神経はく離のクリーニングを行った。今後は左手の関節を2、3週間ギプス固定する。順調に回復すれば2カ月後にはプレーが可能で、来年の春季キャンプには間に合う見込み。中村は球団広報を通じ「これまでは痛みに耐えてプレーを続けてきましたが、このままでは完治は難しいという診断を受け、手術を決断しました」と手術に至った経緯を説明した。

ノリさんが、若い頃に手首を骨折して以来、左手の握力が右手の半分以下になってしまったというのは近鉄ファンの間では有名な話。握力を失って指も思い通りに動かない、そんな左手であの豪快なスイング、何百本のホームランをカッ飛ばしてきた。

同じ病気だったんだなぁ…。

頭で想像するのと、実際にその病に罹ってみるのとでは雲泥の差がある。痛みを感じるというのは、私のような麻痺状態を通り越した重症の神経障害なわけで、だましだましとはいえ、よくもまぁバットが振れたもんだと感心する。こりゃ5億円の値打ちあるかもしんない。ノリさん、あんたスゲーよ。

がんばれ、ノリ! がんばれ、俺!

 Restore Buffaloes !!

Information

Calendar

2010年5月
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

Mobile

Etc.

あわせて読みたい
Listed on BlogShares
Subscribe to my feed, なにわっち's Weblog
Subscribe to my feed, なにわっち's Weblog
人気blogランキング
ブログランキング・にほんブログ村
にほんブログ村 野球ブログ
にほんブログ村 野球ブログ - 思い出の球団
にほんブログ村 競馬ブログ
にほんブログ村 競馬ブログ - 地方競馬・ばんえい
にほんブログ村 車ブログ - モータースポーツ
にほんブログ村 トラコミュ - 近鉄バファローズ
にほんブログ村 トラコミュ - 園田競馬・姫路競馬
人気ブログランキング・ブログの殿堂
blog seo tool : track word
RSS feed meter for  http://naniwacchi.just-size.jp/weblog/

My Profile

My Bookmark

パシフィックリーグ連盟歌(公式ソング) 『白いボールのファンタジー』
blogtimes.png
This Weblog is licensed under the Creative Commons License.
Creative Commons License
Hosted by JSN
Powered by Movable Type 4.27-ja
© Copyright 2003-2010. Naniwacchi, All Rights Reserved.